しかしその一方で「なんで私にはチャンスが回ってこないのだろう?」「なんで私にはセンスがないんだろう?」「なんで私は貧乏に甘んじているのだろう?」こんな惨めで妬ましく思う感情が上手く切り離せません。切り離せないことに気づいて、また私自身の心の狭さを嘆くという悪循環に陥ります。
私の中の「ヤーヤボールの小さな世界」
私にはこのブロガーの気持ちがわかる気がします。とても共感できましたし、大事なことを再確認できました。
地べたの砂の味
「欲しいものは全て手に入れる」、これは私の人生の目標のひとつです。あまりさらけだないように気をつけてはいますが、私は強欲なほうの人間かもしれません。欲しいものが手に入らないことがあると、くやしくてくやしくてたまらない気持ちになるのです。例えるなら、時代は高校生、場所は放課後の校舎のウラ、こうゆうシチュエーションで、意中の異性が自分の友人とイイ感じになっているところを偶然発見してしまった時の気持ちです。
特に私の欲しいものを身近な人が手に入れているのを見てしまうと正常ではいられません。そして正常ではいられない自分がイヤになるのです。この気持ちを私は「地べたの砂の味」と名付けています。とてもなさけなくてくやしくて苦くてパサパサで体が乾く気分です。こういう感覚を、大人になっても、いい歳しても、毎日毎日感じているのです。
私なりの解釈
「私の価値は、私の所有物の価値・社会的地位・属する組織の規模で決まるわけでは無い」
私も同じように思います。私の価値は他人が決めるものではなく、私自身が決めるべきです。だからこそ、私がもし所有物を心の拠り所にしているのであれば、私の価値は所有物によって決まるのです。もう少し説得力を出すのなら、こういう言い方になるでしょうか。私の心の拠り所が家族や友人ならば、私の価値は家族や友人の笑顔の数で決まるのです。理屈は同じはずです。
自分の胸に手を当てると自分の声が聞こえます。その声に正直に生きるべきだと思います。「地べたの砂の味」を忘れてはいけません。自分の声をごまかしてはいけません。私の中のちっぽけなモラルや常識と綱引きを続けていくべきなのです。